しずおか文化のページ伊豆文学賞第7回開催結果→佳作「彫り目」
伊豆文学フェスティバル
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佳作「彫り目」 遊部 香
その建物は本当に、黄金崎を見下ろす絶好の場所にあった。
 バスを降りた時から、視界には既に海と黄褐色の岩肌が入ってきていたが、ここが思い出のあの黄金崎なのだと感じたのは、なぜかその建物を見たときだった。六年前、その建物は今の形ではなかったはずだし、この場所を通ったという記憶もはっきりとはしない。ただあの時、隣で同じようにここの海と岩肌を見つめ、「将来こういう場所で一緒に暮らせたらいいな」と言ったその相手が、本当にここに住み始めた。その事実が、過去の思い出を蘇らせるみたいだった。
 二階建ての建物は、上は居住空間になっているようだが、下はギャラリーと小さな彫刻のスクールになっていた。入り口は大きなガラス張りの扉になっていて、中がすぐに見渡せた。通りがかりの人も入りやすいようにという配慮なのだろう。扉の左脇には、オープンを祝う花が控えめに飾られていた。そっと中を覗きこむと、手前には木彫りの小物が整然と並べられ、奥の机の上にだけ作りかけの作品や木くず、新聞紙などが散乱していた。
 友達同士らしい三人の女性客が木彫りを手にとっては、楽しそうに話をしていた。あれも弘明が作った物なのだろうか。そう思うと足がすくむ。今更、何のためにここまで来たのだろうという後悔の念に駆られる。
 でも、私の目の奥には、一つだけ確かな黒い文字があった。
「良ければ恭子と一緒にでも来てください」
 相変わらず拙い、懐かしい文字。ギャラリーオープンを知らせるハガキは優子のところにしか届かなかったが、彼女は笑顔でそのハガキを私に渡した。
「私も時間ができたら行こうと思っているけど、とりあえずオープンのお祝い、渡してきてよ」
 そう言うと優子はリボンのついた小さな箱を私に押しつけるようにして笑った。私は優子の頼みを断れなかった。
 今、私の鞄の中にその箱が入っている。
 私は肩から提げている鞄をもう一度掛け直し、意を決して店に入ろうとした。
 でもその瞬間、三人の客の向こうに、車いすに乗った弘明が見えた。私の足は再び固まった。弘明は決して小柄な体型ではなかったが、それでも車いすの存在感があまりに強く、以前よりとても小さく見えた。それに戸惑う。彼が事故で足を不自由にしたということは知っていたのに、想像力の乏しい私には、彼のこのような姿を思い描くことができていなかった。
 彼は接客に集中しているため、私の方には目を向けなかった。それに救われた気がした。私が今表したショックを、弘明に感じ取られたくはなかった。
 弘明は車いすの幅ぎりぎりの通路を難なく通り抜け、客とも自然に話をしていた。あまりにも慣れた車いすの扱いに、あの事故からの年月。そして私が彼と会わなかった年月を思う。
 私は落ちつかなくなり、通りがかりを装い、店を素通りする。そしてガードレールのところまで行き、海を見ながら深呼吸をする。
 海は力強く差し込む春の光を受け、細かく煌めいている。そして岩肌は、小さく砕かれた水晶の欠片を埋めこまれたような、繊細なひだを見せる。その風景は、一つの方向からきた太陽の光を、多方向へちりばめ、決して平面にはならない。
 頬には冷たい風が当たる。暖かい日も増えたが、風はまだ時々冷たい。ただ冬とは違い、春の風には花の香りが乗っている。

 弘明と私が別れたのも春だった。五年前の春。あのとき、別れを決めたのは一方的に私の方だった。弘明を嫌いになったわけではなかった。ただ彼はあまりにも親しい存在過ぎて、一緒にいることが恋愛なのか分からなくなっていた。
 私と弘明は高校二年のころ、美術系の予備校で知り合い、つきあいはじめた。女子高・男子高に通っていた私達にとって、お互いが初めての恋人だった。だから初めのうちは多少ぎこちないところもあったが、変に恋人らしく振るまわず、友達同士として気軽につきあっていけるようになったのが良かったのかもしれない。周りのカップルはほとんど卒業と同時に別れていってしまったが、私達は半分意識的に、半分運命的に、同じ大学へ進み、その関係は問題なく続いていった。
 美大に入ってからも、私達は彫刻というものを通してお互い理解を深めていった。美の好みには個人差があるから、好みが全く同じだったとはいわない。でも、その違いが溝になることはなかった。お互いのことを信じ、認めあえていたのだと思う。
 でも、大学三年の半ばから、私達の関係は少しずつきしみはじめた。きっかけは三年の時の担当の教授が、私の「才能」を認めてくれたことだった。私はクラス・学年の中で少しずつ特別扱いされるようになった。今になって思えば、芸術の才能など、ただの好みの問題でしかないような気がする。たまたまその教授と私の好みが合ったというそれだけのこと。でも当時の私はその評価に変なプライドを持っていたし、弘明はそれを間違った形で尊重していた。
 気付いたら、平等だった二人の関係に、上下の関係ができてしまった。そして私は、「下」にいる弘明の存在をどこか物足りなく感じ始めた。私は弘明には内緒で彫刻関係のワークショップに通い始め、そこで知り合った人とつきあい始めた。
 彼は特に彫刻を専門に勉強したわけでも、仕事に生かそうとしているわけでもない、ごく普通の社会人だったが、逆にそれが新鮮だった。当時の私は、自分の彫刻が認められることに喜びを感じる反面、それだけの価値観で動いている大学の生活に窮屈さも感じていたからだ。
 弘明は私の「浮気」に気づき始めていたが、何も言わなかった。ただ私は、何かをはっきりさせたくて、ごく普通のデートの帰り道、
「ちょっと話があるの」
 と、弘明を公園のベンチに座らせた。そのベンチの脇には真っ赤なツツジが今を盛りに咲いていて、そんな美しい場所を選んでしまったことを後悔したのを覚えている。なんとなく、これから先ずっと、ツツジを見たら、つらくなるのではないかという気がした。
「あの人とのこと?」
 弘明は思ったより穏やかだった。私は「そう」と呟くように言った。弘明がそこまではっきりと、私の「浮気」を意識していたとは思っていなかったから、今のこの状況がとても痛く感じられた。私はワークショップの彼のことを弘明に詳しく説明した。卑怯かもしれないが、弘明もその人も好きなのだというように言った。それから、実は彼は結婚している人なのだと、そこまで伝えた。さすがにそのことに対して、弘明は驚いていた。






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